2025年6月3日、野球界のレジェンドである長嶋茂雄さんが、肺炎のため89歳で逝去されました。
【訃報】長嶋茂雄さんが肺炎のため死去 89歳https://t.co/Twlt6pxVsW
プロ野球・読売巨人軍の選手、監督として活躍し、「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督が3日午前6時39分、都内の病院で死去した。 pic.twitter.com/Y1C22G7k7h
— ライブドアニュース (@livedoornews) June 2, 2025
その偉大な功績に多くの人が追悼の意を示す一方で、長年にわたり話題となっていた“父と息子の距離”に再び注目が集まっています。
かつて多くのファンに親子共演で愛された長嶋茂雄さんと、その長男・一茂さん。
ですが後年は、親子関係が疎遠になっていたといわれています。
なぜ、あれほど近くに見えた親子が、距離を置くようになったのでしょうか。
仕事やプライベートでのすれ違いがあったとされ、その背景には“家族だからこそ”の難しさがあったのかもしれません。
進むうちに「見えていたはずの背中」が、少しずつ遠ざかっていった――そんなイメージに近いかもしれません。
この記事では、長嶋家の関係性について、報道や関係者の証言をもとに丁寧に振り返ります。
目次
母・亜希子さんの死と家族の断絶
長嶋茂雄さんと一茂さんの関係が疎遠になった背景として、語られることのある出来事があります。
それが、2007年“母・亜希子さんの死”です。
亜希子さんは、家庭を静かに支えてきた存在でした。
表舞台に立つ茂雄さんを陰で支え、家族の調和を保つ要ともいえる人でした。
特に一茂さんにとっては、母の存在が精神的な支えであり、家族というつながりの中心だったのかもしれません。
しかしその年、亜希子さんは病に倒れ、帰らぬ人となります。
茂雄さんは、当時体調を崩しており、思うように動けない状況だったといわれています。
というのも脳梗塞で倒れて入院したのは、2004年3月6日。
さまざまな事情があったにせよ、最期の瞬間に茂雄さんが立ち会えなかったとされるこの出来事は、一茂さんにとって大きな心の揺らぎになったのかもしれません。
長嶋茂雄さんが愛人の家で倒れたことが、奥様の体調が悪化する原因となり、最終的に奥さんは亡くなられた。このことに息子の一茂さんが怒り、長嶋茂雄さんと絶縁した。今回、茂雄さんの葬儀に一茂さんが出席するかどうか…
— president Trumpo (@terena10301) June 3, 2025
この時期の家族間のすれ違いが、一茂さんと茂雄さんの関係に影響を与えた可能性があるとされています。
それはまるで、家族の絆を支えてきた存在を失い、取り残されたような感覚だったのかもしれません。
何かが静かに、しかし確実に変わっていった。
そのときから、親子や家族の関係に見えない距離が生まれていったとしても、不思議ではありません。
一茂さんは、この頃から家族の関係に対して距離を感じていたとされ、三奈さんとの関係にも、少なからず影響があったといわれています。
長嶋亜希子さんは、ハワイに眠っているそうです。
長嶋一茂、暇さえあればハワイに行ってると知ってなんて羨ましい生活なんだと思っていたけど、ハワイに母親のお墓があると聞いて急に印象が変わった。
— ほぼ作兼 (@hobo_hagi) June 3, 2025
誰かがいなくなったことで残る“空白”。
そこに言葉では埋められない違和感が生まれ、それが時を経て“断絶”という形になった可能性もあります。
もちろん、すべての事情は外からはわかりません。
家族の中で交わされた会話や感情には、他人が踏み込めない領域があるからです。
ただひとつ言えるのは、この出来事を機に長嶋家の関係性に変化があったこと。
そしてそれは、父と子の間の“すれ違い”の一因となったのかもしれないということです。
今、故人を振り返りながら、家族の絆の大切さを考えさせられます。
誰もが「いつか言える」と思っている言葉ほど、伝える機会を逃しやすいのかもしれません。
ネット上にも悲しみの声がたくさんあがっています。
我らがヒーロー長嶋茂雄。子供の頃4番サード長嶋に憧れて野球に明け暮れ、高校野球で長嶋にはなれなかったが、恩師に出会い、生きる指針を得た。後楽園スタジアムで観た引退試合と最後のホームラン。帝国ホテルのトイレで初めて話をさせて貰ったこと等、思い出は尽きない。ご冥福をお祈りします。
— 北村晴男 (@kitamuraharuo) June 3, 2025
商標登録と肖像権ビジネスの深い溝
長嶋家の“距離”は、親子間だけでなく、ビジネスの場でも見える形となって表れました。
2009年、一茂さんが自身の個人事務所「ナガシマ企画」を通じて、「長嶋茂雄」の商標登録を試みたとの報道がありました。
これは、父親の名前を商標として法的に管理することで、第三者による無断使用を防ぐ意図があったともいわれています。
一茂さんの意図についてはさまざまな報道がありましたが、父の名前を守るためだったとされています。
しかし、この動きに対して、妹である三奈さんが異議を唱えたことが、家族間の“温度差”をさらに際立たせました。
三奈さんは、父・茂雄さんのマネジメント事務所「オフィス・エヌ」を運営し、肖像権や出演管理に関わっていました。
もともと、長嶋茂雄さんの名前や写真の使い方(肖像権)は、三奈さんが社長をつとめる会社「オフィス・エヌ」がずっと管理していました。
しかしあるとき、その商標の登録期限(とうろくきげん)が切れたタイミングで、一茂さんの個人事務所「ナガシマ企画」が、あらためて商標を登録しようと動いたのです。
兄の一茂さんが単独で進めたこの登録は、「家族間での調整がないままの動き」と捉えられ、すれ違いの象徴となったのです。
その後、茂雄さんの肖像権管理は「オフィス・エヌ」が担う形となり、「ナガシマ企画」の商標登録は進まなかったと報じられています。
たとえるなら、家族の大切な遺産を巡って、きょうだい間で異なる考えが生じたような状況だったのかもしれません。
長嶋茂雄さんが亡くなられた
「職業野球」と揶揄されていたプロ野球を国民の娯楽にまで押し上げ、今のプロ野球人気を作った凄い方。まさしくミスタープロ野球。
背番号とおなじ「3」が付く日に、そして「89(やきゅう)歳」で亡くなるのも何か運命的なものを感じるな…
心よりご冥福をお祈りします。 pic.twitter.com/TdF79qL1mu
— 【タカトウ】 (@_hawkshawks) June 3, 2025
それぞれに「守りたいもの」がありながら、話し合う場や時間が足りなかった――そんな印象すら感じさせます。
この出来事に対し、一茂さんは公に詳しく語っていません。
兄妹間の関係には、一定の距離が生じたとの見方もありますが、その背景にはそれぞれの立場や思いがあったと考えるべきでしょう。
特に「長嶋茂雄」という名前は、単なる個人名を超え、日本のスポーツ文化に深く刻まれた特別な存在でした。
その名前をどう守り、どう未来へ残していくか――それは、家族にとっても重く、慎重なテーマであったはずです。
このような経緯を知ると、誰が正しかったかを問うよりも、それぞれが“家族”として何を大切にしようとしていたのかを考えることが大切に思えてきます。
意見の違いは、関係の終わりではない。
むしろ、違いを認め合う中にこそ、“本当の理解”への入り口があるのかもしれません。
親子・兄妹の関係も“バラバラ状態”
「長嶋家」と聞いて、多くの人が野球界のレジェンドとその家族を思い浮かべるかもしれません。
華やかな舞台に立つ父と息子、メディアで語られる家族のエピソード。
けれども、その舞台の裏では、家族としての関係に静かな変化があったようです。
たとえば、一茂さんはテレビ番組で、家族との関係について問われた際、疎遠であることを示唆する発言をしたと報じられています。
この発言は、家族の絆に対する世間の印象と異なる現実をにおわせるものでした。
一茂さんは、妹の三奈さんとの直接的な交流が長年少ないとされ、
「10年以上会っていない」
と語ったと報じられたこともあります。
2021年、月刊誌「ゲーテ」(2022年1月号)の連載エッセイで、一茂さんは
「父とは13年会っていない」
「生きているうちに父と会うことは二度とないだろう」
と述べ、父や兄弟(特に次女・三奈氏)とも10年以上連絡を取っていないことを明かしました。
この発言は、事実上の絶縁状態を示唆するもので、大きな話題となりました。
この記事から3年たってるので、一茂さんと父親は16年は会ってないことになります。
かつてはともに公の場に登場することもあった兄妹が、時を経て「交わることのない生活」を送るようになった――そうした距離感が見て取れます。
同じ屋根の下で育ったきょうだいが、それぞれの道を歩み、距離が生じたような状況かもしれません。
その背景には、生活の違い、考え方の違い、そして過去の出来事による影響があったのでしょう。
もちろん、家族の関係とは一概に言えるものではありません。
一見うまくいっているように見えても、内にはそれぞれの葛藤や思いが存在します。
長嶋家もまた、外からは見えない“静かな時間”を過ごしていたのかもしれません。
野球界のレジェンドとしての大きな存在感と注目の中で、プライベートな会話や感情のやりとりが、ときに後回しになったこともあるのかもしれません。
世間からの期待と現実のギャップのなかで、それぞれが自分の「立ち位置」を探し続けていたのではないでしょうか。
一茂さんの語り口は、淡々としつつも、家族との関係を受け止める姿勢が感じられることがあります。
それは「わかり合えない」という絶望ではなく、「そういう関係もある」と静かに受け入れた人の言葉のようにも聞こえます。
長嶋茂雄さん残念です😌息子一茂さんの演技に顔がほころぶ長嶋茂雄さん😌#長嶋茂雄#長嶋一茂 pic.twitter.com/Qubj84H3y9
— カリメロ (@IoEQ6nRrDPmHYz7) June 3, 2025
故人を含めた長嶋家の姿は、家族の絆の複雑さと大切さを私たちに教えてくれます。
近くにいるからこそ見えにくくなる思いやり、距離があるからこそ気づく温度。
そのどちらも、家族というつながりのなかにあるのです。
長嶋茂雄の長女と次男は何してる?
長嶋茂雄氏の喪主は次女の三奈氏
長男・長嶋一茂はプロ野球選手からタレント
長女・有希はオフィスエヌの元役員
次女・長島三奈はスポーツキャスター
次男・長島正興は自動車レーサーから環境活動家
物議ありそう。— かやのなか (@okayamaeichan) June 3, 2025
長嶋茂雄さんの家族の姿はあまり知られていません。
とくに、長女と次男については、公に語られることがほとんどありませんでした。
まず、長女・長嶋有希さんについて。
彼女は1960年代後半に生まれましたが、プライバシーを守るため公の場にほとんど登場していません。
過去には、長嶋家の「オフィスエヌ」に関与していたとされる時期もありましたが、
現在は公的な役割から退いているとされています。
その後の生活については、プライバシーを尊重し、公に情報はほとんど報じられていません。
ヤフーの知恵袋にはこんな投稿がありました。
引用 : 知恵袋
一説によると、ケネディ一家のと同じで。 長女のことに触れるのはタブーだとか。 巨人番記者もデスクなどから、絶対に長女のこと質問するなと言われてたらしいです。
さらに、栃木県のこころみ学園にいたという投稿もありました。
引用 : 知恵袋
栃木県のこころみ学園を調べてみると、こんな投稿を見つけました。
栃木県足利市にある「こころみ学園」をご存じですか?https://t.co/awOu0KZddH
こころみ学園では、重度の障害のある方の居住の場として、家庭的な温かみのある施設を提供すると共に、椎茸の原木栽培や葡萄の栽培を中心とした日中活動支援を提供をしています。… pic.twitter.com/vQVZFDHzKb
— スペシャルキッズ.ai (@specialkids_ai) April 14, 2024
障害のある人が働いているところみたいです。
本当のところは分かりません!
噂程度にしておくのが良いかと思います。
次に、次男の長嶋正興(まさおき)さん。
今の子は息子がレーサーだったこと知らなそう🤔
てか監督すら知らないか笑
ん〜どうでしょう pic.twitter.com/4K6yEfT37h— oldoil (@oldoil_) February 6, 2025
1970年生まれの彼は、かつて本格的なレーシングドライバーとして活動していました。
2003年にスーパー耐久レースでチャンピオンになったこともあります。
2008年から環境に関する仕事に従事、その後レーシングドライバーを引退。
現在は環境管理士などの資格を取得し、環境分野で活動の場を広げているそうです。
主には、エコドライブの講習会や環境と車に携わる仕事のようです。
具体的な団体名やプロジェクトは報じられていませんが、自然との共生をテーマにした活動を地道に続けているようです。
こうして見ると、長嶋家の子どもたちは、それぞれ異なる役割や道を歩んでいるようです。
目立つことだけが人生の成功ではありません。
目立たない場所で、自分のペースで生きるという選択も、同じように尊いものです。
たとえば、家族の中で目立たない役割を担いながら、それぞれの場所で人生を歩む存在です。
大きな拍手はなくても、その一歩一歩には確かな意味があります。
2025年6月3日、茂雄氏が逝去した今、家族それぞれの道を振り返ると、目立たない存在にも大切な役割があることに気づかされます。
静かに、それでも力強く生きる人たちの姿に、あらためて敬意を持ちたいと思います。
ハワイに刻まれた家族の記憶
長嶋茂雄さんがこの世を去ったいま、改めて振り返られるのが“家族”との関係、そしてハワイという場所にまつわる深い物語です。
ハワイは、かつて長嶋家にとって特別な場所でした。
1980年代初頭、長嶋さん夫妻はハワイ州に法人を設立し、のちに別荘を購入。
穏やかな気候と青い海のそばで、家族で過ごした時間は、特に長男・一茂さんにとって「母との大切な記憶」として強く残ったとされています。
一茂さんは、母・亜希子さんが遺言でハワイに分骨するよう望んでいたと明かし、自身も「母のそばで眠りたい」と語ったことがありました。
その思いを胸に、彼は2007年に約2億2000万円のコンドミニアムを、2016年には別の別荘(約3億5000万円相当)を購入。
ハワイを「心の拠り所」として選び続けてきました。
一方で、亜希子さんの死後、家族で使用していたハワイの別荘は、次女・三奈さんの管理下で売却されます。
法人として所有していたこの別荘は、かつて夫妻が設立したハワイ法人の資産であり、長年家族の記憶が染みついた場所でした。
2008年、三奈さんがオフィスエヌの代表となった後に、当時のレートで1億5000万円前後と見られる金額で手放されたとされています。
つまり、母の記憶を求めて新たな別荘を購入した一茂さんと、その象徴的な場所を手放した三奈さん――
2人の「選択」が、まるで鏡合わせのように対照的だったのです。
こうした行動の背景には、それぞれが抱える家族への思い、過去の出来事、そして心の中の整理の仕方があったのでしょう。
何が正しい、間違っているという話ではなく、家族のなかで“立場”や“記憶”が違えば、選ぶ道も変わる――それだけのことかもしれません。
生前、長嶋茂雄さんが「一茂をよろしく」と知人に語っていたという話があります。
直接会話を交わすことはなかったとしても、息子に対する思いを口にしていた――そのひとことに、父としての優しさや葛藤がにじんでいます。
長嶋さんは生前、日本国内での活動を重視しており、2023年には「青少年の野球支援」を目的とする一般財団法人を設立しました。
理事に名を連ねたのは、旧知の記者や専門職の面々。
財団の運営には三奈さんが深く関わっており、2024年以降も野球を通じた地域貢献活動に参加していました。
父の“終活”ともいえるこの動きは、きっと彼なりの「未来への置き土産」だったのでしょう。
一方の一茂さんは、あくまで静かに、遠くから父を見送る形を取りました。
亜希子さんの分骨先であるハワイに自身も眠りたいと語るその姿勢には、派手さではなく、家族への複雑な感情と、静かな敬意が感じられます。
同じ家族であっても、たどる道は異なります。
ハワイをめぐるこのすれ違いは、互いに抱えた想いの大きさを逆説的に物語っているのかもしれません。
親子の距離は、近すぎても、遠すぎても難しい。
そして、どこかで折り合いがつかないまま、時間だけが過ぎてしまうこともある。
けれど、それでも「思い出の地」を守る人がいて、「未来を託す財団」を築いた人がいた。
そんなそれぞれの歩みに、私たちは静かに敬意を払いたいと思います。
絶縁の背景は?
長嶋茂雄さんと一茂さんの間に生じた深い距離――。
その背景には、複数の出来事が複雑に絡み合っていたと報じられています。
ひとつは、2008年に報じられた商標権をめぐる問題です。
こちらは先ほどお伝えしました。
続いて起きたのが、2009年に報じられたグッズ売却問題です。
一茂さんが茂雄さんゆかりの品々を、福井県内のミュージアムに約2000万円で売却したとの報道がありました。
昨年末、長嶋一茂が父のトロフィや野球用品、さらに母の遺品まで売却していたことが発覚。一茂から「長嶋グッズ」を買い取り、福井市内の「スポーツ・ミュージアム山田コレクション」で展示しているのが山田勝三氏(65)。セブン-イレブンの大株主で、福井県の1%の土地を持つと噂される億万長者。
— 週刊FLASH編集部 (@weeklyflash) January 11, 2010
一部には、母・亜希子さんの遺品が含まれるとの情報もありました。
一茂さんはこの報道に対し、売却を否定したとされていますが、家族の合意なく進められたとされる点に、さらなる不信感が生まれたと見られています。
さらに、こうした対立の背景には、感情的な確執も指摘されています。
一茂さんは、母・亜希子さんとの関係が特に深かったとされ、彼女の逝去(2004年)を境に、茂雄さんや三奈さんとの関係に変化があったといわれています。
一部の報道では、亜希子さんの逝去やその背景に関する噂が、家族間の不信感に影響した可能性が指摘されています。
長嶋さんあんなでも割と女癖悪くて脳梗塞起こした日も愛人の家にいたので一茂からもう面倒見ねえと愛想尽かされてたみたいだしな
— りょん (@lyon_noir) June 3, 2025
もちろん、これらはいずれも確証のある情報ではなく、報道や推測の域を出ないものです。
ただ、親子や兄妹といった近しい関係だからこそ、些細な行き違いや誤解が、深い断絶へと発展してしまうことがあります。
絶縁という言葉の裏には、家族ならではの複雑な背景があったんだと思います。
長嶋茂雄さんのご冥福をお祈りいたします。
昭和33年にデビューした長嶋茂雄さんは東京タワーと同期。背番号は3、タワーは333m。長嶋さんに感謝と哀悼の意を表し、ライトアップが消灯されました。 pic.twitter.com/YKg8glt5Sg
— スポーツ報知 巨人取材班 (@hochi_giants) June 3, 2025
なぜ親子なのにここまで壊れたのか
親子関係とは、本来とても身近で、あたたかいものであるはずです。
けれど、その“理想”が現実になるとは限りません。
世間から見ると、「親子ならいつかはわかり合える」と信じたくなるもの。
しかし、長嶋茂雄さんと一茂さんの関係は、独自の道をたどったといわれています。
一茂さんは、野球選手としてプロ入り後、タレントやコメンテーターとして独自のキャリアを築いてきました。
その一方で、父・茂雄さんは選手としても監督としても時代を築き上げ、「ミスター」として日本中から敬愛される存在でした。
父・茂雄さんの偉大な存在は、一茂さんにとって大きな影響を与えていたと考えられます。
周囲の目や比較の視線、無言の期待。
そのすべてが、親子という関係にとって“静かな壁”になっていったのかもしれません。
それは有名な登山家の子どもが、周囲から山登りを期待されるような状況に似ているかもしれません。
「父のようになるべき」という前提で語られる日常の中では、自分自身の言葉や選択が、正しく評価されにくくなることもあります。
このような関係では、本来もっと交わされるはずの本音の会話や感情の共有が、次第に
「言わなくても伝わるはず」
「伝えても届かないだろう」
と変化していくのです。
結果として、「すれ違い」が積み重なり、「距離」に変わっていく――
それは特別な家庭に限らず、どんな親子にも起こりうる現実です。
一茂さんは、インタビューなどで、父との関係について距離を感じさせる発言をしたと報じられています。
その背景には、自身で道を切り開く姿勢があったと考えられます。
人は誰しも、親のもとを離れ、自分の人生を選んでいきます。
その過程で、あえて“距離を置く”という選択をすることもあるでしょう。
大切なのは、「それが正しいかどうか」ではなく、その選択がどれだけ悩みや葛藤の末に生まれたものかということです。
- 親子だからこそ、言葉にできない思いがある
- 親子だからこそ、「伝えるべきタイミング」を逃してしまうこともある
長嶋親子の歩みは、そうした普遍的な家族のかたちを、私たちにそっと示してくれます。
故人を振り返りながら、「血のつながり」だけでなく、互いの理解を大切にする視点が、新たな関係の手がかりになるかもしれません。
それでも“父の背中”を追った息子の選択
親子の関係に距離があったとしても、その影響が消えることはありません。
一茂さんのこれまでの歩みには、長嶋茂雄さんという父の存在が大きく影響を与えていました。
一茂さんは、プロ野球選手として父と同じ背番号を背負ってグラウンドに立つという選択をしました。
ヤクルト時代は父と同じ背番号「3」だった長嶋一茂。プロ初安打がホームランという華があった。#昔のプロ野球選手 pic.twitter.com/djTpRU2mrD
— ミドルエッジのX (@middleedge) February 18, 2020
これは、本人にとっても大きな覚悟が必要だったに違いありません。
当時、「親の七光り」と言われる声もあり、一茂さんはそのような評価に対し、淡々と受け止める姿勢を見せたとされています。
周囲の雑音のなかでも、真正面からその立場に向き合った姿は、むしろ誠実さのあらわれだったのかもしれません。
父の名前に敬意を持ちながら、自分の道を歩もうとしたのではないかと見られています。
その後、一茂さんはタレント・コメンテーターとしてメディア活動を続ける中で、
父・茂雄さんについて語る場面は限られていました。
2025年4月3日放送のTBS「まさかの一丁目一番地」でも、一茂さんは父から1996年に実家で戦力外通告を受けたエピソードを語っています。
一茂は「父親が自宅に僕のことを呼んで、俺も何年ぶりかに実家に帰ったんだけど、『一茂はもう来年の戦力には構想として入ってないから』ってだけで、『はい、分かりました』って帰ってきたからね。家にいたの1、2分じゃないの」と明かし、スタジオに「ええーっ!?」と驚きの声が上がった。 一茂は「親父にそういうことを言わせるってことは、俺は親不孝だなと思うし」と振り返った。 巨人時代に現場で父と話したことは「ほとんどないね」とし「周りも選手もいる、そこで親父と喋ってるところを見られたら、どう思いますかと考えてたから」と説明した。球場を離れても「とっくに実家出てるから、家にも帰らない」とした。 司会の加藤浩次が、野球を辞めて親子に戻ってからの会話を聞くと、「あんまりないね」と明かした。 「なんか話しづらい部分があったし。子供のころから野球界に入ること夢見て、自分がそこで活躍して、監督になってっていうところの、自分なりのライフチャートが崩れたところから、野球が嫌になって、野球界と携わるのが嫌になって、テレビで喋ってたけど、全然好きじゃなくなっていった」。 心の中を「好きでいると辛いわけよ。自分がまたやりたいから、やりたくなる自分を抑えるためには嫌いになるしかないわけ」と告白。「父親と話をしなくなったのは、親と話をすることは野球しかないから。父は野球こそが人生、僕はもう野球こそが人生と言えないから」と明かした。引用 : デイリー
一茂さんはもっと父親と話したかったと思います。
父・長嶋茂雄さんが89歳で旅立った今、その思いの一部は胸に秘められたままとなりました。
あらためて振り返ると、一茂さんと父親には私たちにはわからない確執があったんだと思います。
長嶋茂雄と長嶋一茂の確執は凄いんだね
13年も会っていないんだから事実上の絶縁だよな
スーパースター長嶋茂雄は家庭を顧みず良い家庭は作れなかった
私も家庭を大事にしなかった父親とは不仲だから一茂の気持ちはよく分かる— mako@関西50代派遣社員 (@mikemik80784347) December 8, 2021
私たちは、ときに家族との関係に距離を感じることがあります。
別々の道を歩んだ親子が、同じ記憶を共有していた――
その静かなつながりが、故人の遺したものとして心に残ります。
一茂さんはメロンを二つ割にして、ブランデーを注いで食べるそうです。
長嶋一茂がヤクルト時代に志願して落合博満と自主トレを行なった際、長嶋家より銀座千疋屋のメロンが届く。一茂がそのメロンを二つ割りにして種を取り、ブランデーを注いで一気に食べる姿を見た落合夫妻は、「子供はこのようにのびのびと育てなきゃいけない」と話し合ったと、落合夫人は語ったという。
— 山野浩一 (@koichyamano) June 3, 2025
父である茂雄さんも同じようにメロンを食べていたのかもしれませんね。
長嶋茂雄さんのエピソードが好きだった人は多いと思います。
長嶋茂雄さんご冥福をお祈りします
とんでもエピソード全部好き pic.twitter.com/Xih1xslc4t— 運太郎 (@kroos199034) June 3, 2025
- 蕎麦を食べに行き、店主と熱いそば談義を交わし、蕎麦打ちの腕前を見せてもらって感心した後、注文したのはカツ丼。
- 大学時代「I live in Tokyo」を過去形にしろという問題に「I live in EDO」と回答。
- 新入団のスーツ姿の定岡に「洋服を着るのは初めてか?」「嬉しいか? 洋服着れて」「洋服緊張するか?」などと発言。
- せんだみつおが酒気帯び運転で捕まったという話を聞いて「死刑にならない?」と心配する。
- 夫人との初デートの際には午前5時に起き、デートコースを先に回ってすべての場所を掃除した。
- 好きな四字熟語を書いてとリクエストされて渡された色紙に「長嶋茂雄」と書いた。
- アメリカで「こっちの子は英語がうまいなあ」と発言。
- 試合後、飲みに行く頻度が高く、就寝が午前2時になっても、起床は午前5時という生活を徹底していた。その生活について記者から質問されると「5時間も寝れば十分」と回答。
- 中日ドラゴンズの応援歌が売れていた頃、「この曲テンポが良いよね。実はこれ、前に中日にいた坂東君が歌ってるんだよ」と本人に説明。
長嶋茂雄さんの独特な語り口が好きだった。 pic.twitter.com/oKUlx3OZIG
— カセイ・ゴンザレス (@kurokami10par) June 3, 2025
一茂さんがコメントを発表しました。
長嶋茂雄の全てのファンの皆様及び、関係者の皆様
父 長嶋茂雄が永眠致しました。
父にとって野球は人生そのものであり、最愛の存在でした。
長嶋茂雄が野球に捧げた人生の礎を築くことができたのは、ファンの皆様をはじめ野球関係者、スポンサーの皆様の温かいご支援のおかげです。
父の野球人生は誰よりも幸せな89年間だったと感じております。
長嶋茂雄は野球の星に帰りました…生前、グラウンドで残した沢山の情熱がこれからの日本プロ野球界の発展に少しでも役に立つことを父も願っていたことと思います。
長い間、父長嶋茂雄にご声援を頂き本当にありがとうございました。
長嶋一茂
いろいろ複雑だと思います。
父として、監督として、野球の神様として… ただ悲しいとも違う複雑な感情でしょう。
亡き父への思い
2025年6月6日に放送された「羽鳥慎一モーニングショー」では、長嶋一茂さんが亡き父・長嶋茂雄さんへの思いを、約15分間にわたり真摯に語りました。
そのなかで特に印象的だったのが、一茂さんが「父親としての茂雄さん」と「野球人としての茂雄さん」、2つの視点から父を見てきたと語る場面でした。
羽鳥慎一アナウンサーから「父親としての思い出」を問われると、一茂さんは「昭和の父親というと、昭和の方に怒られるかもしれないけど」と前置きしながら、「家庭の方よりも常に仕事を向いていた」と振り返りました。
仕事優先の姿勢は、少年時代の記憶として一茂さんの中に強く残っているようです。
家にいる時間は少なかったものの、「一つ屋根の下で過ごした日々の中で、感じるものは当然あった」と、言葉を選びながら語りました。
一方で、一茂さんは「野球人としての父」も強く意識していたといいます。
少年時代に友人の影響で野球を始め、やがてプロの道へ進んだ一茂さん。
しかし、父・茂雄さんがあまりに偉大な存在だったがゆえに、「野球をやるたびに、父親がどんどん遠くへ行ってしまうような感覚があった」と明かしました。
テレ朝『モーニングショー』で長嶋一茂氏が父・長嶋茂雄氏について「(自分が)野球を始めると、近かった父親がどんどん遠く離れていくように感じた」と言っていて、ある分野で偉大な功績を残した親を持ち、同じ道を進むことを決めた子の実感として、いい言語化だった。ちゃんと「他者」になる。大事。
— たられば (@tarareba722) June 5, 2025
プロ入り後は常に「君のお父さんはね…」という言葉から会話が始まり、周囲の目にさらされ続けた日々。
一茂さんはそのプレッシャーとどう向き合えばよいのか、当時は模索していたのかもしれません。
番組ではさらに、約30年前に父から受けたプロ野球選手としての“戦力外通告”についても語られました。
これは一茂さんがジャイアンツに移籍した直後の出来事で、監督だった茂雄さんが息子に戦力外を告げるという、あまりにも重い場面でした。
「父親に言わせてしまってはいけない言葉だった」と一茂さんは語り、その瞬間を「30年経っても悔いが残っている」と振り返りました。
「悔やんでも仕方がない」と言いながらも、その悔しさは心の奥に今も残っていることが感じ取れます。
コメンテーターの玉川徹氏から「偉大な父を持つことのつらさ」について問われた場面では、一茂さんはしばらく沈黙した後、「つらさは誰にでも訪れるもの」と語り、自分だけが特別につらいわけではないという考えを持っていることを明かしました。
辛かったのでは?と訊かれて、辛かったとは応えない長嶋一茂さんがカッコいい。
偉大な父を持ち、なのに自分は野球で結果を出せず、どう考えてもお辛い時代が長くあられたと思うのに、
腐ったり卑屈になったりせず、等身大自然体で素敵にふるまわれている。
偉大だなぁ。
— iiiii (@iiiiizu53) June 6, 2025
「父が偉大過ぎて、他の方とは違う環境ではあったかもしれないけど、監督と選手、父と息子という関係は、皆さんとそんなに変わらないと思っている」とも語り、極めて冷静かつ客観的な視点を持っていることが印象的でした。
また、父の晩年についても言及し、「21年前に大病を発症してからの闘いは壮絶だった」と語る場面では、息子として父の人生の“第二章”に対する尊敬の念が感じられました。
89年間という人生を「ずっと闘ってきた」と総括し、最期は「輝きを放ったまま終えた」と表現した一茂さん。
その言葉には、表面的な感情以上に深い理解と受け入れがにじみ出ていました。
父・茂雄さんの最期については、
「泣いていた兄弟はいなかった」
「笑い声もあった」
と明かし、「しんみり見送るより、父は喜ぶだろうと思っている」と語りました。
長嶋一茂「キレイな看護師に囲まれていて幸せだっただろう」#モーニングショー
— 宮脇睦(みやわきあつし)@みやわきチャンネルLv.Go4.0 (@miyawakiatsushi) June 5, 2025
この言葉には、あくまでも“らしさ”を大切にした家族の見送り方が込められていました。
家庭では距離感があり、野球では偉大な存在――一茂さんにとって父・茂雄さんは、常に「近くて遠い存在」だったのかもしれません。
それでも、一人の人間として父と向き合い、その背中を追いながら生きてきた一茂さんの姿勢には、多くの視聴者が心を打たれました。
今朝のモーニングショーの録画
最近テレビを見ていてこんなに引き込まれたことは無いくらい長嶋一茂の言葉にグッと来た。
親ガチャとか軽々しく言う人には見てほしい。良好な関係ではなかった時期もあるからこその深みのある話だった。 pic.twitter.com/o9dYd0oAA5
— ワン学習塾&ガッツRC いぬどう (@GuuOne) June 6, 2025

