映画を観おわったあと、なんだかもやもやする。
『ナイトフラワー』のラストシーンは、まさにそんな作品。
主人公の夏希(北川景子さん)が家族のために闇の世界に足をふみいれて、親友のボクサー・多摩恵(森田望智さん)とふかい絆をむすんでいくんですが……クライマックスの銃声が、いったい何を意味するのか?
SNSでは「ハッピーエンド?それとも絶望?」って議論がもりあがってるんです。
この作品、母の愛と犠牲をテーマにしながら、あえて答えをださない終わり方で、観た人の心にふかーい余韻をのこします。
監督の内田英治さんは、わざと答えをぼかして、みんなの想像力をかきたてる作戦。
おかげで「すっきりしないけど忘れられない!」って評価があつまってます。
この記事では、ネタバレありであの結末をとことん考察。
銃声のほんとうの意味、家族旅行にいけたのか、そしてあの曖昧なエンディングにこめられた監督の想いにせまります。
まだ観てない方はちょっと待って!これから物語の核心にふれちゃいますので、ご注意くださいね。
目次
「銃声のあと、なにがおきたの?」
「家族はぶじなの?」
映画館をでた瞬間、こんな疑問が頭のなかをぐるぐるまわった人、けっこういるはず。
でもね、このもやもや感って、じつは作品の最大の魅力なんです。
公開初日のXでは「ラストの解釈がわかれそう」「監督、なにがいいたかったの?」ってポストであふれかえって、映画レビューサイトでも「曖昧さがクセになる」って声がたくさん。
心理学的にいうと、人間って物語に「ちゃんとした結末」をもとめるんですって。
でも内田監督は、それを逆手にとって、わざともやもやさせることで、観た人の心にながーく印象をのこそうとしてるんです。
たとえば『インセプション』って映画も、夢なのか現実なのかわからないまま終わって、いまでも議論されてますよね。
『ナイトフラワー』では、夏希の「母としての選択」が曖昧におわることで、「愛のためなら犠牲もゆるされるの?」っていうテーマが、ずっと心にのこるしかけになってます。
さらに、これって現代の映画文化とぴったりなんです。
YouTubeの解説動画やTikTokの考察クリップがどんどんふえてて、みんなが自分なりの解釈をシェアしあってる。
これ、じつは監督のねらいどおり。
1960年代のアート映画からつづく「想像力をかきたてる芸術」のながれなんですって。
『ナイトフラワー』の場合、とくに「現実と幻の境目」があいまい。
銃声のあとにひびくドアベル、昼間にさいてるナイトフラワー(ほんとうは夜にしかさかない花)……これぜんぶが「ほんとうの結末はあなたしだい」っていってるみたい。
レビューサイトでも「すっきりしないけど、なんども考えたくなる」って声がおおい。
このもやもやを「たのしむ」のが正解。
さいしょは戸惑っても、時間がたつと作品のふかみに気づくはずですよ。
ずばり、銃声は親友・多摩恵(森田望智さん)の死をあらわしてます。
クライマックスで夏希と多摩恵は、ドラッグ取引のトラブルにまきこまれて、敵対勢力の追手から家族をまもるために命をかけるんです。
銃声がひびく直前、多摩恵が夏希の子どもたちをかばう姿がえがかれて、そこから「もうもどれない終わり」がおとずれる――これが真相。
このシーンは、物語のテーマ「犠牲と救済」をぎゅっと凝縮してます。
夏希は借金返済のために闇社会に足をふみいれて、多摩恵は孤独なボクサーとして彼女を守りますが、おたがいの「母性愛」が悲劇をよんじゃう。
銃声はただの効果音じゃなくて、夏希の「最終選択」――家族をすくうために、多摩恵をうしなう代償なんです。
Xの考察では「多摩恵の死で夏希の希望がくずれおちた」「敵対勢力のしゅうえんを暗示してる」っていう声が。
中盤の伏線をふりかえると、夏希の過去(母子家庭の貧困)と多摩恵の葛藤(訳ありの人生)がからみあって、銃声で爆発するんです。
監督は『セブン』みたいな衝撃的なエンドを参考に、「倫理の問い」をなげかけます。
けっか、わたしたちは「愛ゆえの犠牲ってただしかったの?」って自問することに。
レビューでは「森田望智さんの演技が銃声をおもくする」って高評価なんです。
この真相をしると、ラストの「幻のハッピーシーン」(家族の再会、昼のナイトフラワー)がよりせつなく感じられます。
現実では多摩恵の死が夏希をおいつめて、観客に「ほんとうの終わり」を想像させるんです。
衝撃的だけど、これが作品の核心――
母の愛は、ときに破壊をうむ。
「家族で旅行にいけたのでしょうか?」
この疑問、けっこうみんな気になってますよね。
結末のカギは夏希の「家族旅行」へのこだわりです。
物語のはじめから、夏希は子どもたちの夢(海外旅行)をかなえるために、借金とドラッグに手をそめます。
ラストの直前、「こんどこそみんなで旅行にいこう」っていうセリフが胸をしめつけるけど、銃声のあとの展開はあいまい。
ここを多角的にかんがえてみましょう。
夏希の日常をみてると(パートをはやめにきりあげたり、子どもの学校イベントに参加したり)、彼女は「家族優先」の姿勢をくずしません。
中盤、多摩恵との絆で精神的につよくなって、旅行資金をためる具体策(闇かせぎ)を実行。
Xでは「夏希の努力が旅行を可能にした」っていう解釈もあるんです。
でも、銃声(多摩恵の死)が転機に。
これで資金はえられたけど、トラウマがのこる。
旅行は「実現」するかもだけど、よろこびは半減しちゃうかも。
「かならず実現させよう」っていう言葉は、夏希の愛情のあかし。
子どもの「ママ、旅行たのしみ!」っていうやりとりが、母子の絆をつよめます。
ただ、ふそくの事態(取引の失敗、警察のかげ)がひんぱつして、セリフは「未達成の約束」の象徴に。
レビューサイトでは「このセリフで涙腺ほうかい」っていう声。
旅行は、夏希の「正常な家族像」のメタファー(たとえ)なんです。
実現すれば「仕事と家庭のバランス回復」、失敗なら「現実のあきらめ」をしさ。
ラストのドアベルシーン(多摩恵の幻?)と昼のナイトフラワー(奇跡のあんじ)が、旅行の「もうひとつの結末」を連想させます。
監督インタビューでも「視聴者に未来をたくす」ってかたってて、ハッピーより(旅行成功)の解釈が主流。
旅行なしでも「日常の絆」がすくい。
Xのファン考察では「銃声後、家族はにげて旅行へ」ってポジティブな声がおおいんです。
あなたなら、どう終わる物語にしますか?
この曖昧さが、作品をなんども見たくさせるんですよね。
『ナイトフラワー』の結末は、銃声=多摩恵の死、家族旅行=希望の幻影として、母の愛の二面性をえがきます。
なぜ曖昧にしたのか?
監督は「現実のきびしさを、想像でやさしくつつむ」ためだったようです。
公開後、SNS論争があつくて、レビューサイトでも80%が「再鑑賞すいしょう」。
もやもやを胸に、原作小説や舞台あいさつ動画でふかぼりを。
あなたの世界で、夏希たちは旅行へたどりつくはずです。
劇場でたしかめてみて!
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