2025年6月3日、野球界のレジェンドである長嶋茂雄さんが、肺炎のため89歳で逝去されました。
その偉大な功績に多くの人が追悼の意を示す一方で、長年にわたり話題となっていた“父と息子の距離”に再び注目が集まっています。
かつて多くのファンに親子共演で愛された長嶋茂雄さんと、その長男・一茂さん。
ですが後年は、親子関係が疎遠になっていたといわれています。
なぜ、あれほど近くに見えた親子が、距離を置くようになったのでしょうか。
仕事やプライベートでのすれ違いがあったとされ、その背景には“家族だからこそ”の難しさがあったのかもしれません。
進むうちに「見えていたはずの背中」が、少しずつ遠ざかっていった――そんなイメージに近いかもしれません。
この記事では、長嶋家の関係性について、報道や関係者の証言をもとに丁寧に振り返ります。
目次
長嶋茂雄さんと一茂さんの関係が疎遠になった背景として、語られることのある出来事があります。
それが、2007年“母・亜希子さんの死”です。
亜希子さんは、家庭を静かに支えてきた存在でした。
表舞台に立つ茂雄さんを陰で支え、家族の調和を保つ要ともいえる人でした。
特に一茂さんにとっては、母の存在が精神的な支えであり、家族というつながりの中心だったのかもしれません。
しかしその年、亜希子さんは病に倒れ、帰らぬ人となります。
茂雄さんは、当時体調を崩しており、思うように動けない状況だったといわれています。
というのも脳梗塞で倒れて入院したのは、2004年3月6日。
さまざまな事情があったにせよ、最期の瞬間に茂雄さんが立ち会えなかったとされるこの出来事は、一茂さんにとって大きな心の揺らぎになったのかもしれません。
この時期の家族間のすれ違いが、一茂さんと茂雄さんの関係に影響を与えた可能性があるとされています。
それはまるで、家族の絆を支えてきた存在を失い、取り残されたような感覚だったのかもしれません。
何かが静かに、しかし確実に変わっていった。
そのときから、親子や家族の関係に見えない距離が生まれていったとしても、不思議ではありません。
一茂さんは、この頃から家族の関係に対して距離を感じていたとされ、三奈さんとの関係にも、少なからず影響があったといわれています。
長嶋亜希子さんは、ハワイに眠っているそうです。
誰かがいなくなったことで残る“空白”。
そこに言葉では埋められない違和感が生まれ、それが時を経て“断絶”という形になった可能性もあります。
もちろん、すべての事情は外からはわかりません。
家族の中で交わされた会話や感情には、他人が踏み込めない領域があるからです。
ただひとつ言えるのは、この出来事を機に長嶋家の関係性に変化があったこと。
そしてそれは、父と子の間の“すれ違い”の一因となったのかもしれないということです。
今、故人を振り返りながら、家族の絆の大切さを考えさせられます。
誰もが「いつか言える」と思っている言葉ほど、伝える機会を逃しやすいのかもしれません。
ネット上にも悲しみの声がたくさんあがっています。
長嶋家の“距離”は、親子間だけでなく、ビジネスの場でも見える形となって表れました。
2009年、一茂さんが自身の個人事務所「ナガシマ企画」を通じて、「長嶋茂雄」の商標登録を試みたとの報道がありました。
これは、父親の名前を商標として法的に管理することで、第三者による無断使用を防ぐ意図があったともいわれています。
一茂さんの意図についてはさまざまな報道がありましたが、父の名前を守るためだったとされています。
しかし、この動きに対して、妹である三奈さんが異議を唱えたことが、家族間の“温度差”をさらに際立たせました。
三奈さんは、父・茂雄さんのマネジメント事務所「オフィス・エヌ」を運営し、肖像権や出演管理に関わっていました。
もともと、長嶋さんの名前や写真の使い方(肖像権)は、三奈さんが社長をつとめる会社「オフィス・エヌ」がずっと管理していました。
しかしあるとき、その商標の登録期限(とうろくきげん)が切れたタイミングで、一茂さんの個人事務所「ナガシマ企画」が、あらためて商標を登録しようと動いたのです。
兄の一茂さんが単独で進めたこの登録は、「家族間での調整がないままの動き」と捉えられ、すれ違いの象徴となったのです。
その後、茂雄さんの肖像権管理は「オフィス・エヌ」が担う形となり、「ナガシマ企画」の商標登録は進まなかったと報じられています。
たとえるなら、家族の大切な遺産を巡って、きょうだい間で異なる考えが生じたような状況だったのかもしれません。
それぞれに「守りたいもの」がありながら、話し合う場や時間が足りなかった――そんな印象すら感じさせます。
この出来事に対し、一茂さんは公に詳しく語っていません。
兄妹間の関係には、一定の距離が生じたとの見方もありますが、その背景にはそれぞれの立場や思いがあったと考えるべきでしょう。
特に「長嶋茂雄」という名前は、単なる個人名を超え、日本のスポーツ文化に深く刻まれた特別な存在でした。
その名前をどう守り、どう未来へ残していくか――それは、家族にとっても重く、慎重なテーマであったはずです。
このような経緯を知ると、誰が正しかったかを問うよりも、それぞれが“家族”として何を大切にしようとしていたのかを考えることが大切に思えてきます。
意見の違いは、関係の終わりではない。
むしろ、違いを認め合う中にこそ、“本当の理解”への入り口があるのかもしれません。
「長嶋家」と聞いて、多くの人が野球界のレジェンドとその家族を思い浮かべるかもしれません。
華やかな舞台に立つ父と息子、メディアで語られる家族のエピソード。
けれども、その舞台の裏では、家族としての関係に静かな変化があったようです。
たとえば、一茂さんはテレビ番組で、家族との関係について問われた際、疎遠であることを示唆する発言をしたと報じられています。
この発言は、家族の絆に対する世間の印象と異なる現実をにおわせるものでした。
一茂さんは、妹の三奈さんとの直接的な交流が長年少ないとされ、
「10年以上会っていない」
と語ったと報じられたこともあります。
2021年、月刊誌「ゲーテ」(2022年1月号)の連載エッセイで、一茂さんは
「父とは13年会っていない」
「生きているうちに父と会うことは二度とないだろう」
と述べ、父や兄弟(特に次女・三奈氏)とも10年以上連絡を取っていないことを明かしました。
この発言は、事実上の絶縁状態を示唆するもので、大きな話題となりました。
この記事から3年たってるので、一茂さんと父親は16年は会ってないことになります。
かつてはともに公の場に登場することもあった兄妹が、時を経て「交わることのない生活」を送るようになった――そうした距離感が見て取れます。
同じ屋根の下で育ったきょうだいが、それぞれの道を歩み、距離が生じたような状況かもしれません。
その背景には、生活の違い、考え方の違い、そして過去の出来事による影響があったのでしょう。
もちろん、家族の関係とは一概に言えるものではありません。
一見うまくいっているように見えても、内にはそれぞれの葛藤や思いが存在します。
長嶋家もまた、外からは見えない“静かな時間”を過ごしていたのかもしれません。
野球界のレジェンドとしての大きな存在感と注目の中で、プライベートな会話や感情のやりとりが、ときに後回しになったこともあるのかもしれません。
世間からの期待と現実のギャップのなかで、それぞれが自分の「立ち位置」を探し続けていたのではないでしょうか。
一茂さんの語り口は、淡々としつつも、家族との関係を受け止める姿勢が感じられることがあります。
それは「わかり合えない」という絶望ではなく、「そういう関係もある」と静かに受け入れた人の言葉のようにも聞こえます。
故人を含めた長嶋家の姿は、家族の絆の複雑さと大切さを私たちに教えてくれます。
近くにいるからこそ見えにくくなる思いやり、距離があるからこそ気づく温度。
そのどちらも、家族というつながりのなかにあるのです。
長嶋茂雄さんの家族の姿はあまり知られていません。
とくに、長女と次男については、公に語られることがほとんどありませんでした。
まず、長女・長嶋有希さんについて。
彼女は1960年代後半に生まれましたが、プライバシーを守るため公の場にほとんど登場していません。
過去には、長嶋家の「オフィスエヌ」に関与していたとされる時期もありましたが、
現在は公的な役割から退いているとされています。
その後の生活については、プライバシーを尊重し、公に情報はほとんど報じられていません。
ヤフーの知恵袋にはこんな投稿がありました。
引用 : 知恵袋
一説によると、ケネディ一家のと同じで。 長女のことに触れるのはタブーだとか。 巨人番記者もデスクなどから、絶対に長女のこと質問するなと言われてたらしいです。
さらに、栃木県のこころみ学園にいたという投稿もありました。
引用 : 知恵袋
栃木県のこころみ学園を調べてみると、こんな投稿を見つけました。
障害のある人が働いているところみたいです。
次に、次男の長嶋正興(まさおき)さん。
1970年生まれの彼は、かつて本格的なレーシングドライバーとして活動していました。
2003年にスーパー耐久レースでチャンピオンになったこともあります。
2008年から環境に関する仕事に従事、その後レーシングドライバーを引退。
現在は環境管理士などの資格を取得し、環境分野で活動の場を広げているそうです。
主には、エコドライブの講習会や環境と車に携わる仕事のようです。
具体的な団体名やプロジェクトは報じられていませんが、自然との共生をテーマにした活動を地道に続けているようです。
こうして見ると、長嶋家の子どもたちは、それぞれ異なる役割や道を歩んでいるようです。
目立つことだけが人生の成功ではありません。
目立たない場所で、自分のペースで生きるという選択も、同じように尊いものです。
たとえば、家族の中で目立たない役割を担いながら、それぞれの場所で人生を歩む存在です。
大きな拍手はなくても、その一歩一歩には確かな意味があります。
2025年6月3日、茂雄氏が逝去した今、家族それぞれの道を振り返ると、目立たない存在にも大切な役割があることに気づかされます。
静かに、それでも力強く生きる人たちの姿に、あらためて敬意を持ちたいと思います。
長嶋茂雄さんと一茂さんの間に生じた深い距離――。
その背景には、複数の出来事が複雑に絡み合っていたと報じられています。
ひとつは、2008年に報じられた商標権をめぐる問題です。
こちらは先ほどお伝えしました。
続いて起きたのが、2009年に報じられたグッズ売却問題です。
一茂さんが茂雄さんゆかりの品々を、福井県内のミュージアムに約2000万円で売却したとの報道がありました。
一部には、母・亜希子さんの遺品が含まれるとの情報もありました。
一茂さんはこの報道に対し、売却を否定したとされていますが、家族の合意なく進められたとされる点に、さらなる不信感が生まれたと見られています。
さらに、こうした対立の背景には、感情的な確執も指摘されています。
一茂さんは、母・亜希子さんとの関係が特に深かったとされ、彼女の逝去(2004年)を境に、茂雄さんや三奈さんとの関係に変化があったといわれています。
一部の報道では、亜希子さんの逝去やその背景に関する噂が、家族間の不信感に影響した可能性が指摘されています。
もちろん、これらはいずれも確証のある情報ではなく、報道や推測の域を出ないものです。
ただ、親子や兄妹といった近しい関係だからこそ、些細な行き違いや誤解が、深い断絶へと発展してしまうことがあります。
絶縁という言葉の裏には、家族ならではの複雑な背景があったんだと思います。
長嶋茂雄さんのご冥福をお祈りいたします。
親子関係とは、本来とても身近で、あたたかいものであるはずです。
けれど、その“理想”が現実になるとは限りません。
世間から見ると、「親子ならいつかはわかり合える」と信じたくなるもの。
しかし、長嶋茂雄さんと一茂さんの関係は、独自の道をたどったといわれています。
一茂さんは、野球選手としてプロ入り後、タレントやコメンテーターとして独自のキャリアを築いてきました。
その一方で、父・茂雄さんは選手としても監督としても時代を築き上げ、「ミスター」として日本中から敬愛される存在でした。
父・茂雄さんの偉大な存在は、一茂さんにとって大きな影響を与えていたと考えられます。
周囲の目や比較の視線、無言の期待。
そのすべてが、親子という関係にとって“静かな壁”になっていったのかもしれません。
それは有名な登山家の子どもが、周囲から山登りを期待されるような状況に似ているかもしれません。
「父のようになるべき」という前提で語られる日常の中では、自分自身の言葉や選択が、正しく評価されにくくなることもあります。
このような関係では、本来もっと交わされるはずの本音の会話や感情の共有が、次第に
「言わなくても伝わるはず」
「伝えても届かないだろう」
と変化していくのです。
結果として、「すれ違い」が積み重なり、「距離」に変わっていく――
それは特別な家庭に限らず、どんな親子にも起こりうる現実です。
一茂さんは、インタビューなどで、父との関係について距離を感じさせる発言をしたと報じられています。
その背景には、自身で道を切り開く姿勢があったと考えられます。
人は誰しも、親のもとを離れ、自分の人生を選んでいきます。
その過程で、あえて“距離を置く”という選択をすることもあるでしょう。
大切なのは、「それが正しいかどうか」ではなく、その選択がどれだけ悩みや葛藤の末に生まれたものかということです。
長嶋親子の歩みは、そうした普遍的な家族のかたちを、私たちにそっと示してくれます。
故人を振り返りながら、「血のつながり」だけでなく、互いの理解を大切にする視点が、新たな関係の手がかりになるかもしれません。
親子の関係に距離があったとしても、その影響が消えることはありません。
一茂さんのこれまでの歩みには、長嶋茂雄さんという父の存在が大きく影響を与えていました。
一茂さんは、プロ野球選手として父と同じ背番号を背負ってグラウンドに立つという選択をしました。
これは、本人にとっても大きな覚悟が必要だったに違いありません。
当時、「親の七光り」と言われる声もあり、一茂さんはそのような評価に対し、淡々と受け止める姿勢を見せたとされています。
周囲の雑音のなかでも、真正面からその立場に向き合った姿は、むしろ誠実さのあらわれだったのかもしれません。
父の名前に敬意を持ちながら、自分の道を歩もうとしたのではないかと見られています。
一茂さんはメロンを二つ割にして、ブランデーを注いで食べるそうです。
父である茂雄さんも同じようにメロンを食べていたのかもしれませんね。
その後、一茂さんはタレント・コメンテーターとしてメディア活動を続ける中で、
父・茂雄さんについて語る場面は限られていました。
2025年4月3日放送のTBS「まさかの一丁目一番地」でも、一茂さんは父から1996年に実家で戦力外通告を受けたエピソードを語っています。
一茂は「父親が自宅に僕のことを呼んで、俺も何年ぶりかに実家に帰ったんだけど、『一茂はもう来年の戦力には構想として入ってないから』ってだけで、『はい、分かりました』って帰ってきたからね。家にいたの1、2分じゃないの」と明かし、スタジオに「ええーっ!?」と驚きの声が上がった。 一茂は「親父にそういうことを言わせるってことは、俺は親不孝だなと思うし」と振り返った。 巨人時代に現場で父と話したことは「ほとんどないね」とし「周りも選手もいる、そこで親父と喋ってるところを見られたら、どう思いますかと考えてたから」と説明した。球場を離れても「とっくに実家出てるから、家にも帰らない」とした。 司会の加藤浩次が、野球を辞めて親子に戻ってからの会話を聞くと、「あんまりないね」と明かした。 「なんか話しづらい部分があったし。子供のころから野球界に入ること夢見て、自分がそこで活躍して、監督になってっていうところの、自分なりのライフチャートが崩れたところから、野球が嫌になって、野球界と携わるのが嫌になって、テレビで喋ってたけど、全然好きじゃなくなっていった」。 心の中を「好きでいると辛いわけよ。自分がまたやりたいから、やりたくなる自分を抑えるためには嫌いになるしかないわけ」と告白。「父親と話をしなくなったのは、親と話をすることは野球しかないから。父は野球こそが人生、僕はもう野球こそが人生と言えないから」と明かした。引用 : デイリー
一茂さんはもっと父親と話したかったと思います。
父・長嶋茂雄さんが89歳で旅立った今、その思いの一部は胸に秘められたままとなりました。
あらためて振り返ると、一茂さんと父親には私たちにはわからない確執があったんだと思います。
私たちは、ときに家族との関係に距離を感じることがあります。
別々の道を歩んだ親子が、同じ記憶を共有していた――
その静かなつながりが、故人の遺したものとして心に残ります。
長嶋茂雄さんのエピソードは私も好きでした。
一茂さんがコメントを発表しました。
長嶋茂雄の全てのファンの皆様及び、関係者の皆様
父 長嶋茂雄が永眠致しました。
父にとって野球は人生そのものであり、最愛の存在でした。
長嶋茂雄が野球に捧げた人生の礎を築くことができたのは、ファンの皆様をはじめ野球関係者、スポンサーの皆様の温かいご支援のおかげです。
父の野球人生は誰よりも幸せな89年間だったと感じております。
長嶋茂雄は野球の星に帰りました…生前、グラウンドで残した沢山の情熱がこれからの日本プロ野球界の発展に少しでも役に立つことを父も願っていたことと思います。
長い間、父長嶋茂雄にご声援を頂き本当にありがとうございました。
長嶋一茂
いろいろ複雑だと思います。
父として、監督として、野球の神様として… ただ悲しいとも違う複雑な感情でしょう。
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