映画『国宝』を観終わったあと、春江や彰子の結婚相手は誰だったのか?
背中に刺青が入っていたのは?
と、ちょっとしたモヤモヤが残った方も多いはずです。
さらに、俊介との子供や藤駒との関係など、物語の細かな部分が気になったまま…という声も少なくありません。
今回はそんな疑問をひとつずつ整理しながら、登場人物たちの愛と選択の物語にじわりと迫っていきます。
知れば知るほど、見えてくる『国宝』の深い人間ドラマとは──。
目次
映画『国宝』を観たあと、SNSにはこんな声が飛び交っていました。
うん、これはほとんどの人が混乱する構造になってました。
なにせ、登場人物の関係や時系列が飛び飛びで描かれるんですから。
ここでまず、春江と彰子という2人の女性がどういう存在だったのかを一緒に整理しておきましょう。
→ 高畑充希が演じた女性。
→ 長崎時代から喜久雄の恋人。
→ 喜久雄に深く惚れ込み、彼と対の刺青を背中に入れる。
→ 大阪まで追いかけてきたが、喜久雄の歌舞伎への執着により関係が破綻し、俊介を支えて結婚。
→ 森七菜が演じた女性。
→ 名門・富士見屋の娘、つまり「歌舞伎の家の血」を持つ女性。
→ 喜久雄を兄のように慕っていたが、やがて恋心に変わる。
→ 喜久雄と恋人になるが、彼の歌舞伎界復帰の打算や芸への執着により別れ、結婚には至らず。
こうやって整理すると、それぞれの立ち位置や役割が少しクリアになりますよね。
でも、ここで混乱する理由もいくつかあるんです。
→ 高畑充希と森七菜が演じる春江と彰子は、役柄や背景が異なるものの、喜久雄との関係や時系列の飛び飛びな展開で混同されやすいのが実情。
→ 特に映画は春江の刺青や彰子の名門設定で区別はつきやすいが、シーンが前後するため観客の記憶が混ざりやすかったのです。
→ 春江は長崎からの恋人、人生を賭けた存在。
→ 彰子は一時的な恋人、打算も絡んだ関係。
→ それぞれ違うフェーズで喜久雄と関わるため、観ていて「どの時点で誰とどうなってた?」と混乱した方が多かったのも当然でしょう。
→ 刺青があるのは春江だけ。
→ 彰子には刺青の描写は一切ありません。
→ ここが混ざると、さらに人間関係がややこしく見えてしまうんですね。
たとえるなら、春江は喜久雄の「最初の恋」で過去を刻む存在。
彰子は「一時的な希望」で未来を夢見た存在、といった違いです。
恋愛経験のある方なら、「初恋で一番心に残っている人」と「あとから現れて一時心を預けた人」…そんな感覚の違いに近いかもしれません。
さらに混乱の原因としては、映画が長崎から大阪、喜久雄の不遇時期を飛び飛びに描いたため、時系列の整理が観客の頭の中で難しかった、というのもあります。
たとえば「いま大阪?春江はどこ?」「この時はもう俊介と一緒?」といった疑問が浮かんだ方、多かったはずです。
「結局、誰が誰と結婚したのか、全然わからなかった…」
これ、映画『国宝』を観たあとによく聞こえてきた声です。
それもそのはず。
映画は 喜久雄の50年という長い物語を3時間弱に凝縮しています。
関係性や結婚の描写がさらっと流れたり、時系列が行き来したりしていたので混乱するのも無理はありません。
春江と彰子、そして刺青と子供の真相を一つひとつ確認していきます。
まず、春江(高畑充希)は大垣俊介(横浜流星)と結婚しています。
映画でもしっかりと俊介と夫婦として歩む姿が描かれていますね。
原作でも同様に、春江は俊介の妻となり、息子・一豊をもうけます。
「でも、春江って最初は喜久雄の恋人だったんじゃ…?」
はい、その通りです。
春江は長崎時代から喜久雄(吉沢亮)の恋人でした。
彼を愛し、追いかけ、大阪にまでついていきます。
しかし、喜久雄は歌舞伎の芸にますます没頭していきます。
だんだんと、春江はその「芸に全てを捧げる姿」に寄り添えなくなっていったのです。
そんな中、俊介が出奔(しゅっぽん)=家から逃げ出し、心が折れてしまう事件が起こります。
俊介の弱さと孤独を見た春江は、彼に寄り添う道を選びました。
一言で言えば、「喜久雄の芸への執着に耐えきれず、春江は寄り添える俊介を選んだ」ということになります。
映画でも俊介の手を取る春江の姿が象徴的でしたね。
選ばれなかった男(喜久雄)と、寄り添うことを選んだ男(俊介)…。
ある意味、春江は 「救える人を救う」道を選んだのかもしれません。
一方、彰子(森七菜)は喜久雄と結婚していません。
これも映画・原作ともに共通の事実です。
「でも、彰子って喜久雄の恋人っぽかったじゃん?」
そうなんです。
彰子は一時的に喜久雄の恋人になります。
ただ、その関係にはちょっとした影がありました。
実は喜久雄は歌舞伎界での復帰を目指し、彰子の父(歌舞伎界の大物)の力を借りようとした一面もあったのです。
もちろん、それだけが理由ではありません。
喜久雄にも彰子への好意や愛情はありました。
ですが、父親にその意図がバレてしまい、ふたりの関係は破綻します。
映画の中でも彰子が「出ていってやる!」と叫ぶ場面が印象的でしたね。
むしろ喜久雄の歌舞伎への没頭を示すための別離として演出されていました。
つまり、愛よりも芸を選んだ喜久雄の生き方が強調されるシーンだったとも言えます。
そして、彰子のその後の人生(結婚したかどうか)は映画・原作ともに描かれていません。
「結婚しなかった」とは断定できない、あくまで物語からはそこが曖昧なままとなっています。
さて、意外とSNSでも混乱が多かった刺青問題。
「背中に刺青が入ってたのって誰?」という声、多く見かけました。
正解は…春江だけです。
春江は長崎時代に喜久雄と対になる刺青(紋々)を背中に入れたのです。
これは喜久雄への深い愛の証でもありました。
俊介と結婚しても、その刺青は消えません。
まさに 「過去の愛が皮膚に刻まれたまま、新しい人生を歩む」という哀しみがにじむ描写でもあります。
一方、彰子には刺青の描写は一切ありません。
これでもう迷うことはありませんね。
最後に 子供問題も整理しましょう。
「春江と俊介に子供っていたっけ?」という声もちらほらありました。
答えは…YES。
春江と俊介の間には 息子・一豊(かずとよ)が生まれています。
原作では、一豊は後に俊介の名跡「花井半弥(はない はんや)」を継ぐという重要な役割を担います。
映画でも春江が丹波屋の女将となり、息子を育てている様子が描かれていました。
一方、彰子と喜久雄の間に子供はいません。
これは映画・原作ともに明確な設定です。
ここまで整理すると、かなりスッキリしたのではないでしょうか?
この3つの軸がわかれば、人間関係の大枠はしっかり整理できます。
さて、次はいよいよ春江・彰子・藤駒の関係性の深掘りや、
「藤駒との子供の話ってどうだったの?」という気になるところに入っていきます。
まだまだ『国宝』の人間関係、奥が深いんですよ…。
『国宝』という映画、とにかく人間関係が濃密で複雑でしたよね。
映画を観終わったあと、そんな声がたくさん聞こえてきました。
ここでは春江・彰子・藤駒という3人の女性と喜久雄との関係を、もう一歩深掘りして見ていきましょう。
まず、春江。
彼女は長崎時代からの喜久雄の恋人。
互いに「一生ものの愛」を信じていた関係でした。
その証拠が背中に入れた刺青(紋々)。
「一生消えないもの」を体に刻むほどの覚悟があったんですね。
でも、喜久雄は芸への執着が極まり、人としての部分がどんどん見えなくなっていった。
そんな彼に春江は「ついていけなくなった」。
そこに現れたのが俊介。
俊介は逆に 「もう歩けない、誰かに支えてほしい」状態。
春江は俊介の弱さを支えることで、喜久雄への愛から新たな人生を選びました。
例えるなら、「昔は一緒に夢を追った恋人。でも今は、そばで誰かを支える道を選んだ」といった感じでしょうか。
刺青は消えなくても、心の選択は変わったというわけです。
続いて彰子。
彰子は喜久雄が一時的に未来を夢見た相手でもありました。
なぜなら彼女は名門・富士見屋の血を持つ女性。
ヤクザの出自にコンプレックスを抱く喜久雄にとって、彰子は 「歌舞伎の世界の正統性」を象徴する存在だったんですね。
でも、そこに打算がなかったかといえば…それは難しいところ。
「この結婚が自分の芸の道を開いてくれるかもしれない」
そんな思いがあったのも事実でしょう。
ただ、それだけではありません。
喜久雄にも彰子への好意や情はあったのです。
映画でも恋愛感情と打算の間で揺れる描写がなされていました。
結果として彰子の父に意図を見抜かれ、破局。
彰子にとっては、喜久雄の愛と打算の間で傷ついた痛みが残った形です。
例えるなら、「信じていた相手の心の中に計算があったと知ってしまった」ような痛みでしょうか。
この別離は喜久雄の芸への没頭をさらに際立たせる出来事にもなったわけです。
そして藤駒。
藤駒は京都・花街の芸妓であり、喜久雄に強く惹かれた女性。
彼女は「芸を支える影の存在」になることを選んだとも言えます。
ここでよく出てきた疑問が「藤駒と喜久雄に子供はいたの?」という点。
正解は──
映画では藤駒との子供の描写がなく、綾乃の存在も簡略化またはカットされています。
原作では藤駒ではなく別の芸妓との間に娘・綾乃が生まれているという設定。
藤駒はあくまで喜久雄の芸の生き様に惹かれた一人の女性であり、結婚も子供も持つことはありませんでした。
映画・原作ともに藤駒との結婚や子供はなく、芸の犠牲となった存在だったのです。
愛したのに、最後は置いていかれた存在とも言えるでしょう。
さて、ここまで 春江・彰子・藤駒という3人の女性との関係を深掘りしてきました。
整理すると──
春江・彰子・藤駒・結婚・刺青・子供──
この映画の中で「愛の形の違い」を最も際立たせているのが、まさにこの3人の物語です。
そして喜久雄が最後まで本当に愛したのは「芸そのもの」だったということ。
国宝という称号にふさわしい芸を手に入れた一方で、愛の代償は大きかった。
そこがこの作品の静かな余韻の部分なのかもしれませんね。
あなたはこの映画を観て、誰の愛に一番共感しましたか?
それもきっと『国宝』という物語の楽しみ方のひとつです。
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