「なんで今こんなに米が足りないの?」
そんな声が、全国のスーパーで聞こえてきます。
たしかに30年前の「タイ米騒動」も思い出されますが、あの時は本当に大冷夏で収穫が激減し、政府もすぐに動いて代替米を輸入しました。
でも今回は、「不作じゃないのに米がない」という不可解な状況。
お米の値段は2倍近く上がっているのに、なぜかコンビニのおにぎりや弁当は、それほど値上がりしていない──。
「業務用にはまだ余裕があるのか?」と不思議に思う人も多いでしょう。
この静かな米不足は、単なる天候の問題ではありません。
流通の仕組み、制度のズレ、政治の力学…
「見えないところで何かがおかしい」と気づき始めた人たちへ、その理由をいま丁寧にひもときます。
目次
ニュースでは「今年の米はそこまで不作ではなかった」と言われています。
たしかに数年前は猛暑の影響で一部の地域では収穫量が落ちたものの、全国的に見れば「例年並み」という声もありました。
それなのに、米がない…高すぎて買えない。
ここで重要なのは、「米の量」ではなく「流れ方」の問題です。
いま、米の流通はJA(農協)や大手卸に大きく依存しています。
農家が直接スーパーに持ち込む時代ではなくなりました。
そのため、大きな流通経路に問題が生じると、全国に一気に影響が広がるのです。
さらに、最近「米が高くなる」という噂が広がり、業者や個人が“買いだめ”に動く動きも見られました。
その結果、実際の需要以上に米が市場から消えたのです。
これは、コロナ初期にマスクやトイレットペーパーが消えた状況とよく似ています。
そして、農家の数も徐々に減っています。
高齢化や後継者不足、収入の不安定さから、田んぼを手放す人が増え、近年、耕作放棄地も増加中です。
つまり、「不作」ではないのに米が消えた背景には
これらがじわじわと絡み合っていたのです。
ネット上にはこんな声も上がっています。
米不足は令和の闇と言う人も。
30年前、記録的な冷夏により全国的な大凶作が起きました。
日本の米が足りなくなり、タイ米が大量に輸入されました。
あの時は、国がすぐに動き、メディアも連日報道。
「仕方ないけど食べるものはある」という安心感がありました。
しかし、今は少し違います。
じわじわと値上がり、気づけば米がない──。
そうした中、政府の決定により、過去数年産の備蓄米が随意契約で放出され、
手頃な価格で販売されることになりました。
一見すると、これは「動いた国」の証のように見えますが、問題はその“中身”と“流れ方”にあります。
放出された米は、保存期間の長い「古米」や「古古米」が中心で、品質や風味に不安を感じる人も少なくありません。
ネット上には、パックご飯と食べ比べる人もいました。
一部の批判では、「古い米を安く売っても品質に問題がある」と指摘されています。
さらに、放出された備蓄米は特定の業者に集中し、一般のスーパーや家庭には届きにくい流通経路が続いています。
市場に十分な量が出回っていないのが現状です。
これは、非常用の水が倉庫に山積みされていても、配る仕組みが煩雑すぎて誰の手にも渡らない──そんな構図です。
備蓄が「あること」と「役に立つこと」は、まったく別の話。
制度が硬直し、使うタイミングや手段が整っていなければ、それは“備え”ではなく“在庫”にすぎません。
それが今、日本の「食の安心」を静かに揺るがしているのです。
不思議に思いませんか?
スーパーで米が高騰する一方で、
コンビニのおにぎりやチェーン店の定食は手頃な価格のまま。
「米が高いのに、なんで弁当は安いままなの?」
この答えは、“業務用米”と“長期契約”という、見えにくい世界にあります。
外食チェーンやコンビニ、食品メーカーは、農協や卸業者とあらかじめ大量契約を結んでおり、価格が急に上がっても、すぐには影響を受けない構造になっています。
また、業務用では「古米(こまい)」や「ブレンド米」を活用することが多く、加工や味付けで風味をカバーできるため、品質よりも安定供給が優先されやすいのです。
たとえば、去年のパンを冷凍しておき、焼き直して提供するようなもの。
さらに、政府の備蓄米が供給される場合があることもあります。
これは、家庭向けよりも業務向けの流通が優先されるケースがあるということ。
つまり、価格の混乱が「家庭に集中している」のは、制度的にも“そのように機能している”結果と言えるでしょう。
家で炊くごはんが、外食より高くなる。
そんな逆転が、いま現実になりつつあります。
それは、単なる価格の話ではなく、「家庭の食卓」が、どれだけ脆くなっているかのサインでもあるのです。
「米はあるのに、なぜ私たちの元に届かないのか?」
この素朴な疑問の答えは、想像以上に“仕組みの歪み”にあります。
今の米流通は、特定の業者や団体に大きく依存しています。
とくにJA(農協)の存在が大きく、多くの農家はJAを通じて米を出荷しています。
一方でJA側も市場価格を安定させるため、米を一気に出さない形で“調整”する場合があります。
こうした調整によって、価格の急騰や暴落を防ごうとする一方で、供給量が足りない時でも「すぐに出回らない」という状況が起きてしまうのです。
政府も、こうした動きを抑え込むどころか、有効な対策を講じてこなかった。
その背景には、JAが政治や政策に対して強い影響力を持つ団体であるという事情もあります。
また、米の流通は長年の慣習に根ざしており、中小のスーパーや個人商店が直接米を仕入れるルートは限られています。
たとえば、非常時に備えて用意された水が、「使いたいときにすぐ使えない」ような制度になっていたらどうでしょうか。
そんな状況が、今の米流通の実態と重なります。
結果として、消費者の目には「米はあるのに手に入らない」という矛盾した現象として映るのです。
制度が硬直し、柔軟な対応ができなくなったとき、食べ物ですら“選べない社会”になる。
それは、ほんの一部の問題ではなく、
私たち一人ひとりの生活にも静かに影を落とし始めています。
私たちは長いあいだ、「米は安くて、いつでも手に入るもの」だと信じてきました。
でも、その常識がいま静かに崩れようとしています。
まず、農家の高齢化が深刻です。
高齢者が田んぼを支えている地域も多く、あと数年で“作る人がいなくなる”土地が増える可能性があります。
それに加えて、農業には多くのコストがかかります。
これらが米の価格に反映されないと、作り手にとっては「続ける理由」がなくなります。
国の支援は十分とは言えず、現場の声と政策とのズレが、年々大きくなってきているのです。
そして、気候変動も見逃せません。
台風、猛暑、豪雨といった異常気象が、毎年のように稲作に影響を与えるようになっています。
さらに、燃料費や流通コストの高騰も、米の価格にじわじわと効いてきます。
このままいけば、「家庭で米を炊く」ことが、かつてのような“当たり前”ではなくなるかもしれません。
たとえば、かつて“水”は無料で手軽に飲めたけど、いまはペットボトルで買うのが普通になったように。
「ごはん」もまた、いつか“お金を出さなければ口にできない贅沢品”になるかもしれない。
それは、ただの食費の話ではありません。
選べるはずの食べ物が、静かに選べなくなる。
そんな未来が、もう目の前に来ているのかもしれません。
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